五島手延うどん協同組合プロモーションビデオ「五島うどん~麺匠が紡ぐ奇跡の物語~」

「五島うどん~麺匠が紡ぐ奇跡の物語~」制作秘話 Part01

 「幻の五島うどんを世界へ」を合言葉に、五島うどんの魅力を世界にPRしていくために五島手延うどん協同組合が制作しました、プロモーションビデオ「五島うどん~麺匠が紡ぐ奇跡の物語~」。
 第1話「五島うどんの発祥」・第2話「製麺工程」・第3話「麺匠のこころ」の3本柱で構成され、千数百年の時空を超えて現代に受け継がれる「小さな島の大きな奇跡の物語」を綴ります。このビデオは今、国内外で開催される物産展会場などで放映されています。


 第1話「五島うどんの発祥」は、元上五島町教育長、吉村政徳氏のインタビュー。吉村氏は新上五島町出身で、「五島神楽」の国の重要無形民俗文化財指定にあたって大きな役割を果たした一人。学究肌で、質問項目に一つひとつ丁寧に、分かりやすく答えました。
 この収録は、上五島の人々が誇る五島列島リゾートホテル マルゲリータのスイートルームで、およそ90分間にわたって行いました。部屋のバルコニーから望む、旅人を驚かせる上五島の豊かな大自然も、映像の中で流れます。


大陸視察で日本のうどんの由来は「岩坦索麺」と確信
 吉村氏はまず、「うどん博士」と呼ばれた國學院大学の加藤有次教授が平成14年3月19日付「長崎新聞」紙上で発表した「五島こそうどんの古里」と題する小論文を取り上げます。
 加藤教授はこの中で、うどんの製法は、遣唐使が中国から日本に帰国する際、日本最初の寄港地・五島で風待ちをしている間に伝えた、と解説しました。
 吉村氏は、この論文をもとに、上五島町教育長の要職にあった平成13年11月、五島うどんのルーツを求めて中国に渡り、浙江省温州市の近く、永嘉県岩坦村に伝わる「岩坦索麺」にたどり着いたエピソードを紹介します。
 「岩坦索麺の製法が、五島うどんの作り方と瓜二つであることに驚きました。生地をこねるところ、寝かせるところ、平らにして鎌でカッティングするところ、棒を挿し、縄状にした麺を8の字にかけて細くしていくところ、うどん作りの道具までも、まったく一緒でした。
 岩坦村の山を越えると、遣唐使が日本に帰る港がありました。この岩坦索麺の製法が遣唐使の一行によって、まず、寄港地だった上五島の人々に伝えられ、それがやがて、日本の各地に伝わっていったのではないか。五島うどんは日本のうどんの発祥である、と確信しました」と、当時の記憶をたどりながら主張しました。



遣唐使一行が島で伝えた唐文化の一つにうどん作りも
 奈良・平安時代の200年間に計36隻の遣唐使船が大陸に渡り、第16次の遣唐使船の第1船に、弘法大師・空海、第2船には伝教大師・最澄が乗船。空海は五島に、密教・文学・医学・土木などを伝え、最澄は(上五島の)若松地区に山王文化の種を蒔きました。それは現在、「日本遺産」として現代に伝わっています。
 遣唐使が五島に唐の文化の種を蒔き、やがて花を開かせた一つにうどんづくりがあった、と吉村氏は結論づけます。
 千数百年もの時を超えて、大陸の製法が現代に受け継がれてきた理由について、吉村氏は「島は海を隔てているために文化・文明の激流にさらされず、ゆったりとした時間が流れながら、昔のままの姿がずっと伝わってきたのであろう。五島うどんの食べ方も、昔のまま残っている最大の要因は、島という地理的条件にあると思う」と分析し、最後に、こう結びました。
 「遣唐使が往来していた時代に戻り、五島うどんが、大陸と五島の交流の懸け橋になれば最高だろうな」

 五島うどんのルーツに迫る労作『五島うどんの御力(みりょく)』(元上五島町教育長・吉村政德著)の紹介記事はこちら



Part2へつづく




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